みあかしという御詠歌の但馬地方本部の広報誌に寄稿することになり文章を練っていた。
『御詠歌の可能性』
 着々と減り続けている御詠歌講員数。今本当に御詠歌は必要なのだろうか。必要なのだとしたら、その理由を明確な言葉で提示できないものか。
  御詠歌は素晴らしい。御詠歌は癒される。今まで何度も聞いたその表現だけで終わらされる発展性のなさこそが、御詠歌の可能性を狭め、時代遅れにしていく要因ではなかろうか。もちろん「言葉にするとチープになる」とか、「それは理屈じゃないものだ」という反論もあるだろう。だが全ては言葉で表現できるとおっしゃったのは他ならぬ弘法大師様なのだ。
  どう素晴らしいのか。御詠歌が人の心にどう影響するのか。また具体的にどういった効能がもたらされるのか。そしてそれを言葉にしていく能力が、今後の御詠歌教師には問われるのだろう。御詠歌とは自分の歌のうまさをひけらかすものでも、皆で優劣を競いあうものでもないのだ。…
 現代は様々な趣味や生きがいの選択肢があり、御詠歌の需要が薄れているのは実感できる。それらの趣味に勝る優位性を御詠歌が示せるか考えていきたい。
  まず「おかげさま」「生かされて」などの言葉が自然に染み付いていく言霊としての力が挙げられるだろう。
  そして音楽療法としての可能性。・・・
 そこまで書いているのを母が読んで一言。
 「なんか偉そう。」
 ドキッとした。ということは書きながら僕もそう感じていたのかもしれない。
 というわけで書きなおして、締め切りぎりぎりで事務局に送信。
  ふ~っ。やっぱり背伸びしちゃ、らしくないよな。
 そして完成した「みあかし」が配布された。
 高野山開創1200年記念大法会。
この素晴らしき時に巡り合えた喜び。
 変えてよかった。
 母さん、サンキュー。
 『そして目に見えぬ約束に届く』 
 
 数年前の高野山団参の時のことです。無事お参りを終えた帰り路は特に女性陣が大盛り上がり。何ヶ寺かで乗り合わせたバスの中は大きな笑い声に包まれました。 
 家が近づくにつれて元気になるので、「早くお父ちゃんのところに帰りたいだか?」とお互いに茶化したり茶化されたりしています。そんな中、若くして旦那さんを亡くされた方が思わず笑い泣きする姿も見られました。
  みんなが心情を察して少ししんみりしたところに、90才くらいのおばあちゃんが大きく言葉を発しました。
 「わしだってな~こんな年だけど、お父ちゃんおらんで寂しいんだで。だけ~高野山にお参りするだで。」
  そしてひと呼吸置いてから笑顔いっぱいに言いました。
 「でも会えたで!」
  ほかの方が僕に耳打ちして僕に教えて下さいます。
 「昨日高野山で夢に出て来られたんですって。」
  僕はなんて素敵なことだろうと嬉しくなりました。たかが夢とあなどってはいけません。夢は自分がなにに目を向ければいいのかを教えてくれる普遍的無意識、つまり「大きないのち」からのメッセージなのです。
  あの時のおばあちゃんのあの表情を、僕は今でも忘れることが出来ません。改めて高野山という聖地の持つ素晴らしい力に気付かされもしました。
 そしていよいよ今年は高野山御開創1200年となります。この記念の年にめぐり合うことができたこと、なにより御詠歌隊のみなさんとご一緒できることに僕は大きな意味を感じるのです。
 僕の大好きな作家、伊坂幸太郎さんの本にこのような一節があります。
 「音楽は最初の一滴。それが波紋をつくる。波紋が波紋を生んでいく。やがて、大きな波となる。波は大気を揺らし、星を覆い、そして、目に見えぬ、約束に届く。」
 どんな約束なのでしょう。みんなが一緒に放つ御詠歌の歌声は、きっと目に見えない約束に届くと、僕は信じています。                                                    
                                     合掌
山地 弘純
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